「宿に残る囁き」

薄暗い山間の宿、建物は古く、どこからともなく漂う湿っぽい匂いが鼻をついた。
宿泊客は少なく、静寂が支配する中、ただ一人の客、名は瑠美がこの宿にやってきた。
彼女は一人旅を楽しむため、週末を利用して訪れたのだった。

宿に到着した瑠美は、宿の主人から部屋の鍵を受け取ると、すぐに自室へと向かう。
部屋に入ると、木の床はギシリと音を立て、壁には薄汚れた和紙が貼られていた。
どうやら長い間、客が来なかったようだ。
それでも、彼女は宿の雰囲気に何となく惹かれ、決して嫌悪感は抱かなかった。

夕食を済ませ、瑠美は部屋で一人、読書にふけっていた。
しかし、静まり返った宿の中で時折、不明な音が響いてくることに気づいた。
風の音かと思ったが、それはまるで誰かが囁いているような、はっきりとした声だった。
彼女は耳を澄ませるが、内容は聞き取れず、ただ単に心をざわつかせるばかりだった。

夜が深まるにつれ、瑠美は次第に不安に囚われていった。
日が落ちていくと共に、宿の中の陰影が濃くなり、どこか物寂しさを感じさせる。
彼女は声を無視し、静かな時を過ごそうと努めたが、心のどこかに不安感が芽生える。
気づかぬうちに、前に立っているかのような冷たい視線に背中が凍りついた。

その時、突如、彼女の目の前に一枚の古びた位牌が現れた。
瑠美は自分の目を信じられなかった。
位牌は自然とその場に現れたのだろうか、誰かの意志が働いているのか。
彼女は位牌を手に取ろうとしたが、その瞬間、かすかな冷気が背中を襲った。
思わず手が止まる。

「助けて、助けて…」

その囁き声は、今や明確に聞こえていた。
それは、宿の中から発せられているものだった。
瑠美の心臓は高鳴り、恐怖で足がすくむ。
目の前の位牌には、かすかに光を放つものが映し出され、彼女は、何か悪しきものに取り憑かれている感覚に苛まれた。

彼女はその夜を、声の正体を探ろうと決意した。
急いで宿の主人を探し、彼に尋ねた。
しかし、主人は言葉を濁し、どこか恐れを抱いている様子だった。
「その子のことは…触れてはいけない」とのみ告げて、部屋に戻ってしまった。

瑠美は宿の周囲を探し、その声の元を追い求めた。
そして、古い館の裏手にひっそりと佇む小さな墓を見つけた。
そこには小さな子供の名前が刻まれており、その子に関する噂が流れていた。
かつてこの宿に宿泊していた一家が、ある晩、不幸にも命を落としたというのだ。

彼女はその晩、宿に戻ることなく、逃げるように山を下りた。
家に着くなり、少しずつ恐怖感が薄れていくのを感じたが、その冷たい囁き声は今も耳に残り、心に深く刻まれていた。

一週間後、瑠美はその宿のことを忘れようと努めていたが、ふとした瞬間に再びあの声を思い出す。
果たして彼女は本当にその声を思い出すことができるのだろうか。
恐怖の記憶は、影のように彼女に付きまとい、決して離れようとはしなかった。
宿での経験はいまだに彼女を苦しめ、今後もその影を追い続けることになるであろう。
この宿には、あの子の未練が残されているのだ。

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