「奥の森に咲く花」

奥深い山々に囲まれた静かな村があった。
村の人々は長い間、その土地に伝わる神秘的な伝説を語り継いでいた。
村の北側には「奥の森」と呼ばれる場所があり、そこには決して近づいてはいけないとされる禁忌のエリアがあった。
昔、奥の森に住む霊が村に災いをもたらしたためだという。
そんな忌まわしい話を聞かされながら育った青年、鈴木健介は、好奇心から奥の森に足を踏み入れる決意をした。

健介は村を離れ、夕暮れの奥の森へ向かった。
森に入ると、空気がひんやりとして、異様な静けさに包まれた。
木々の間から差し込む薄明かりが、幻想的な雰囲気を演出している。
彼は「ただの噂だ」と自分に言い聞かせるも、背筋に微かな恐怖を覚えた。

森を奥へ進むにつれ、健介は異変に気づいた。
足元に小さな花が咲いている。
それは見たこともない奇妙な形をしており、花弁は黒い影をまとったようだった。
彼はその花をじっと見つめていると、突然、耳元で「助けて」とささやく声が聞こえた。
驚いた健介は振り返るが、そこには誰もいなかった。

「誰だ?」と不安が募るが、声は再び聞こえてきた。
「奥へ進んで、お願い……」その声は、どこか優しくも切迫感があった。
健介は胸を高鳴らせながら、その声の主を探そうと決意する。
興味と恐怖がない交ぜになりながら、彼はさらに奥へ進んだ。

森の奥深く、広場のような場所に足を踏み入れると、そこには無数の花が咲いていた。
それだけではなく、彼の目の前には薄い白い影が浮かび上がった。
見た目は女性のようで、彼女は微かに存在感を放っている。
彼女の顔は美しく、しかしどこか悲しげだった。

「私の名前は、綾子。この森に閉じ込められたの」と彼女は言った。
驚愕しながらも、健介は声を失った。
好奇心を抱いてここまで来たのに、今、自分が直面しているのは恐ろしい運命であることに気づいたからだ。

「助けてくれ、私をこの森から解放してほしい」と綾子は懇願した。
彼女の目の奥には涙が宿っているように見えた。
その瞬間、彼の心の中に不思議な感情が湧き上がった。
彼女がかつて生きていた女性で、今は霊としてこの地に囚われていることを感じ取ったからだ。

健介は一度はその場を離れることを考えたが、綾子の悲しげな視線に心打たれてしまった。
「どうすれば救われるの?」と口を開いた。
その問いに、綾子は静かに目を閉じ、「花を摘み、自分の中で還すの。その時、私も自由になれる」と告げた。

彼は躊躇うことなく、周囲の異様な花たちを見渡した。
花を摘むことには恐れがあったが、彼女の願いが、自分を貫く力を与えた。
そして、彼は目の前の花を一つ一つ手に取り、彼女に戻していった。
綾子の表情は次第に穏やかになり、彼女の手はその花を受け入れるように広がった。

「ありがとう……これで私は解放される」と綾子の声は、先ほどとは違い、まるで清らな流れのように響いた。
彼女は徐々に光をまとい、周囲の空気も変わっていく。
森全体がふわりと和むように感じられた。
最後の花を摘んだ瞬間、彼女は微笑んで消えていった。
健介はその光景に涙を流しながら、温かい気持ちに包まれた。

その後、健介は森を後にし、村へ戻った。
彼がそれ以来、奥の森に近づくことはなかったが、花を摘む行為がもたらした解放の意味を、心の奥深くに刻み込んでいった。
村の人々が語り継いだ伝説は、彼にとって何よりも大切な思い出となったのだ。

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