ある古びた村に、健太という若者が住んでいた。
この村は長い間、外界から隔絶された場所で、伝統的な行事や風習が色濃く残っていた。
特に牛頭天王を祭る神社は村の中心に位置し、村人たちにとって特別な意味を持っていた。
しかし、村の人々にはある秘密があった。
それは、古くからの掟、即ち「還すことを忘れた者には、失なうものがある」という言い伝えだ。
健太は日々の暇を持て余していた。
村の行事にもあまり興味はなく、むしろ近くの山へ出かけることの方が楽しみだった。
特に、この時期に行われる悪霊払いの儀式には、いつも心のどこかで拒絶感があった。
そんなある日、健太は山の奥で一つの古い石祠を見つけた。
周りには誰もいない静けさの中、彼はその祠で何かの気配を感じた。
しかし、どこか不気味であるこの場所に惹かれる健太は、思わず近づいてしまった。
石祠にはボロボロになったお供え物と、血痕のようなものが残っていた。
何かを失ったような気がして、彼はあらためて祠を覗き込んでみた。
しかし、中には何も見えない。
ただ、風が吹いてきて、耳元で誰かの囁きのような声が聞こえた。
「還せ、還せ…」
その時、彼はふと、誰かの顔が思い浮かんだ。
幼馴染の美咲だった。
彼女は数年前に村を出て行ってしまったが、健太の中で忘れられぬ存在だった。
その時、彼は自分自身が何かを失っている気がした。
美咲との思い出を還せ、また彼女に会いたいという思いが募っていった。
数日後、村では悪霊払いの儀式が行われたが、健太は一向に参加する気になれなかった。
彼は再び石祠のもとへ向かい、今度はお供え物をしようと決心した。
村人たちはお供えの儀礼を忘れて久しいと思っていた。
その儀式を行うことで、自らの心の中の不安も和らぐと信じ込んでいた。
しかし、彼が石祠にお供えするものは無かった。
ただの石と泥でできた場所に何も捧げるものがないことに、次第に不安が増していった。
そして、彼は気が付いた。
健太の中の美咲との思い出は、実は自分自身が作り上げた幻影だったのではないかと。
その気付きを思いつつ、彼は石祠の前で、ふと再び美咲との日々を思い起こしてみた。
しかし、その情景は次第にぼやけ、かすんでいく。
力を強め、彼は「戻してくれ、美咲との思い出を…還してくれ」と必死に叫んだ。
その瞬間、周囲が暗くなり、冷たい風が肌を突き刺した。
彼は恐怖に駆られ、立ち尽くしていた。
だが、次の瞬間、彼の目の前に現れたのは、美咲そのものだった。
優しい笑顔がそこにあった。
それはこれまで自分が思い描いていた、美咲そのものだった。
「私を忘れないで、健太」と彼女は言った。
喜びと共に彼はその手を取って、彼女を抱きしめようとした。
しかし、彼女の体はどんどん薄れていく。
「還せ、還せ…」という声が耳元で響いた。
彼は力を込めて彼女を引き寄せようとしたが、彼女は手から滑り落ち、消えてしまった。
その時、彼は全てを理解した。
「還す」とは、自分の心の中で美咲との思い出を正しく扱うことだった。
しかし、健太はその意味を理解しないまま、彼女を追い求め続け、結局何も得られぬまま彼女を失ってしまった。
彼の心の中には、村の言い伝えが嘘か真かが示す通り、「失った何か」がいつまでも残ってしまったのだった。
村での生活は続いたが、彼の心はずっと失われた美咲との思い出に囚われていた。