その日は特に蒸し暑い夏の夜だった。
道を歩く健一は、何かに追われるように早足で家へ帰ろうとしていた。
彼は冷たい汗をかきながら、心の中に不安を抱えていた。
街灯もまばらな細い道を選び、足音を響かせながら、無意識に振り返る回数が増えてしまう。
健一は、数日前に友人から聞いた怪談を思い出していた。
それは「道に迷った人の声」についての話だった。
ある古い道を夜に一人で歩いていると、突然、誰かの声が後ろから聞こえるというもの。
しかし、声を振り返ってはいけない。
振り返った時にはもう、その声は近くに迫っていると言われていた。
友人は「振り返ったら終わりだ」と笑いながら伝えたが、健一の心はそれ以来、不安に支配されていた。
「これもただの噂だろう」と自分に言い聞かせ、健一は進み続けた。
しかし、その時、ふと耳に滑り込んできたのは、確かに人の声だった。
「助けて…」という小さな声が、真夜中の静けさの中にはっきりと聞こえた。
誰かが道に迷っているのか、それとも自分の記憶が邪魔をしているのか。
「無視しよう」と健一は思ったが、心のどこかで「振り返ってはいけない」と、何かが彼を引き留めた。
しかし、その声には何か懐かしさがあり、彼は立ち止まった。
そして、何故か振り返りたくなった。
振り返ると、そこには何もない。
薄暗い道の先には、ただの闇だけが広がっている。
「助けて…」という声が、再び耳に響いた。
健一はもう一度振り返ったが、不安と恐れが同時に胸の中に押し寄せてきた。
これが本当に友人の話の通りなのか、自分の精神状態なのか、自分に問いただす。
再び進もうとした瞬間、彼の耳元でささやくように「どこに行くの…」と響いた声に彼はびくっとした。
恐怖が全身を包み込み、モヤモヤとした思考が頭の中で渦を巻いた。
「これは叶わない望みだ、逃げなければ」と考えたが、足は動かない。
「私がどこにいるのか、わかる?」まるで、その声は彼の心の奥深くに響くかのように、すぐそばでささやいていた。
「誰か、助けて…」その声は切なく、思わず心の奥を揺さぶるような響きがあった。
そんな声に抵抗することができず、健一は再び振り返った。
だが、そこには一切の影も見えなかった。
しかし、今度はその声の主の思いがわかるような気がした。
自分ではどうにもならない析きとの持ち込まれた問題のように、彼はその声が失われた何かの切実な思いであることに気付いた。
歩き続けることができなくなった健一は、ついに恐る恐るその場に座り込んでしまった。
目の前にぼんやりと浮かぶのは、過去の記憶。
彼には確かに子供のころ、道に迷った時、誰かに呼ばれたことがあった。
しかし、それはもう忘れ去っていたはずの出来事だった。
それから、健一はその声が、過去に探し求めたことを取り戻すものであると感じた。
時間が経ち、周囲の景色が変わっても、その願いは消えることなく、彼の心の中で強く根付いていた。
彼が失ったものは、ただアスファルトの道を一人で歩いたあの日から続くもので、考えたくもない痛みだった。
見えない声の正体が、健一の望みの変遷とともに滅びていく様を感じていた。
「私、見つけて…どこかにいるはずよ。」その声に対する返事もない中、健一の胸に淀みが広がっていく。
心の中の憤りが彼を侵食する。
だが、振り返ることができない。
結局、彼は静かな道に座り込み、声の先に恐怖を感じながら目を閉じるしかなかった。
未だに、彼の中に潜む声は消えることなく、彼を語り続けた。