夏の終わり、平凡な日常を送る大学生の高橋和也は、友人たちとともに近くの山にハイキングに出かけることにした。
彼らは、日常の喧騒から離れ、自然に触れることを楽しみにしていた。
しかし、和也の心には、微かに不安がよぎっていた。
その日、友人たちと一緒に登った山は、普段は賑やかな観光コースだが、夏の終わりのこの時期になると、静まり返っていた。
彼らが山の中腹に差し掛かった頃、突然、空が暗くなり、どんよりとした雲が彼らを覆い始めた。
雨が降り出す気配を感じた和也は、友人たちに早めに引き返そうと提案したが、彼らは「まだ大丈夫だよ」と言い、無視した。
和也は仕方なくその場に残ることにした。
友人たちが先に進むのを見送る中、彼の心にかすかな恐れが広がっていく。
しばらく歩くと、和也は他の人たちの姿が見えなくなったことに気がついた。
友人たちとはぐれてしまったのだ。
彼は慌ててその場を離れ、元来た道を戻り始めた。
しかし、様子がおかしい。
道は明らかに曲がりくねり、どこへ行けばいいのかわからなくなっていた。
さっきまでいた場所が全く同じように見え、進んでも進んでも出口が見えない。
心拍数が高まり、落ち着こうと深呼吸をするが、息苦しさは募るばかりだった。
さらに進むうちに、和也は何かが彼を見ているような気配を感じた。
彼は身をすくめ、振り返ると、周囲には何もない。
薄暗い森の中で、ただの静寂が彼を包んでいた。
けれども、心には不安がしっかり根を下ろしていた。
その時、ふと耳元で「和也……」と囁く声がした。
和也は驚いて振り返るが、誰もいない。
しかし、確かにその声は彼を呼んでいる。
どこかなつかしさを感じる声だった。
彼はその声に導かれるように進むことにした。
ますます深い森の中へ進むにつれて、恐怖は募っていくが、同時に奇妙な安らぎも感じていた。
何か忘れかけていた記憶のようなものを思い出させる、その声の正体が気になっていたのだ。
ようやく森を抜けた先には、昔なじみの場所が広がっていた。
懐かしい思い出と共に元気だった頃の自分の姿が見え、その場面が鮮明に蘇ってきた。
笑い合っていた友人たち、心ゆくまで楽しんだ夏の思い出——その瞬間こそが、和也の心に満ちていた。
だが、その楽しい記憶も瞬時に変わってしまった。
ふと気がつくと、笑い声は消え、周囲が再び暗くなった。
和也は恐れに駆られて振り返るが、彼を呼んでいた声はもうどこにもなかった。
目を凝らしても、見えるはずの友人たちの姿はどこにもない。
心に温もりを感じる瞬間があったはずなのに、彼は独りぼっちにされていた。
手足の感覚が麻痺し、強烈な孤独感が彼を包み込む。
彼は絶望の底で声を上げ、「友達はどこだ!」と叫んだ。
しかし、その声はまたしても静寂に消えていく。
現実が次第に歪んでいく感覚を感じながら、彼は再び森の奥へ向かった。
そこには、何か不気味なものがいる。
結局、彼はそこから抜け出すことができなかった。
彼の存在は、静寂の中に溶け込み、名もなきものとなった。
人々は和也のことを忘れ、彼の最後の声もまた、山の中に消えていくのだった。
それから数日後、友人たちは彼の行方を捜索したが、結局、彼の姿は見つからなかった。
しかし、山に入ったはずの時刻の数時間後、友人たちの間で「聞こえた声」が語り草となった。
「和也……」という声は、まるで彼を呼ぶかのように、今も誰かの耳にひっそりと残っている。
年々、山の記憶は薄れていくが、その声だけは終わらない。