彼女の名は美咲。
大学の帰り道を一人で歩いている。
夜の街灯がぽつぽつと明かりを灯す中、美咲はどこか不安な気持ちを抱えていた。
大学の友人たちと遅くまで飲んでいたため、帰り道はすっかり暗くなってしまったのだ。
美咲の住むアパートは、古い四階建てのものだった。
夜になるとその薄暗い廊下は、まるで誰かが潜んでいるかのように感じられた。
特に三階には、長い間空き部屋があったため、何か不気味な気配がある。
そんな気持ちを抱えながらも、美咲は自分自身を励まし、なんとか階段を駆け上がる。
すると、突然、耳元で低いささやき声が聞こえた。
「早く来て」
ぞっとして振り返るが、そこには誰もいなかった。
美咲の心臓は鼓動を速め、驚きと恐怖でいっぱいになる。
無理にその声を振り払おうとするが、彼女の五感が捉えた気配は、まるで彼女の背後にあったかのように思えた。
「絶対に気のせいだ」と自分に言い聞かせながら、急いで自室の扉を開けた。
部屋の中はいつも通り。
ベッドに身を投げ出し、深い呼吸を試みる。
しかし、あの声が再び浮かび上がってきた。
その晩、美咲は寝付けずにいた。
すると、夜中の2時頃、窓の外から耳をつんざくような音が聞こえてくる。
何かが壊れる音。
きっと工事でもしているのだろうと考えようとするが、それが違うことに気づいたのは、その音がどんどん近づいてきたからだった。
思わずカーテンを開けると、真っ暗な夜空の中に人影が見える。
誰かがこちらをじっと見つめていた。
その目は普通の人間のものではなく、まるで真っ黒な闇が形を持ったかのように見えた。
美咲は息を呑み、瞬時にカーテンを閉じる。
目を閉じ、無心になろうとするが、その影はまだそこにいる。
数分経った後、再び「早く来て」という声が聞こえる。
この声はどこから来ているのだろうか。
彼女は居ても立ってもいられなくなり、部屋の外に出ることにした。
心臓の鼓動が耳に響きながら、廊下を一歩一歩進む。
その時、三階の廊下から妙な音がするのを聞いた。
その方向に足を進めると、空き部屋のドアが微かに開いている。
どうしてもその中を覗かずにはいられなかった。
ドアを押し開けると、薄暗い部屋の中に無造作に置かれた家具や散乱した紙くずが目に飛び込んできた。
そのとき、視界の端に何かが動くのを感じた。
「よく来たね」
その声はまるで耳元で響くかのように、はっきりとした声で美咲に語りかけてきた。
驚いて振り向くと、先ほど見た影が佇んでおり、その手には自身の体の一部を持っていた。
腕だった。
壊れたように見えるその腕を彼女に向ける。
「私の充実した体、全てをあげるよ。代わりに、あなたをここに引きずり込んであげる」
美咲は恐怖心が頂点に達し、逃げ出そうと後ずさりする。
しかし、影はその場から動く気配を見せなかった。
むしろ、その体の一部が彼女を呼び寄せるように、ゆっくりと伸びてきた。
運命に抗うことができないまま、彼女はその暗闇に飲み込まれ、闇の中で崩れ去っていった。
朝には、彼女の姿はどこにも見当たらず、ただ空き部屋だけが静かに佇んでいた。
美咲の行方を知る者は、二度と現れなかった。