師範代として名を馳せた高橋は、長年の修行で磨かれてきた技術をもとに、数名の弟子を持ち、日々指導に励んでいた。
しかし、ある晩、彼の道場に不気味な噂が広まった。
「壁の向こうから、誰かが助けを求めている」という声が聞こえるというのだ。
高橋は初めてその声を耳にした夜、好奇心に駆られて壁を叩いた。
すると、まるでその音が反響するように、壁から「助けて…」という声が返ってきた。
驚きと恐怖が交錯しながらも、高橋はその声を無視し、翌日の稽古を続けた。
季節が進むごとに、声は強くなり、次第に弟子たちの間でも噂が広まっていった。
ある日、弟子の井上が「師匠、あの声に何か意味があるのではないでしょうか?」と問いかけてきた。
高橋は「恐れることはない。堂々と修行を続けよう」と返事をしたが、どこか心の奥に不安が広がっていた。
一週間後、弟子たちが帰った後、高橋は再び壁に近づいた。
今度は、聞きたくないほど生々しい「お願い、助けて…」という声が耳に入った。
息を呑む高橋は、勇気を振り絞って、壁に手を触れた。
すると、不可思議なことに、壁は温かく、まるで生きているかのようだった。
その瞬間、彼は「破」という言葉が心に浮かんだ。
その日の夜、高橋は夢の中で自らの師に出会った。
師は彼に向かって、「真実に向き合う勇気を持て」と言った。
目覚めた高橋は、言葉の意味を噛みしめつつ、ついに壁を破る決意を固めた。
ある晩、曜日を選んで道場に戻った高橋は、まるで呪いのように響く声を前に再び立った。
手に持つのは、長年使い込んだ木製の槌。
そして彼は、一撃目を壁に叩きつけた。
最初は小さなひびが入っただけだったが、二撃目、三撃目と叩くたび、壁は音を立てて崩れ始めた。
そうして、遂に壁が破れ、中から冷たい風が吹き抜けてきた。
目の前には想像を超えた光景が広がっていた。
薄暗い空間の奥には、かつての弟子たちが見えた。
彼らは目を大きく見開き、恐怖に震えていた。
そして、彼らの姿は徐々に薄れていき、まるで存在そのものが壁に吸い込まれるように消えてしまった。
高橋は腰を抜かし、恐ろしさに震えた。
彼は急いでその場を後にし、道場の外に飛び出した。
道場の周囲は他の人々も通る道で、誰も彼の異変に気づくことはなかったが、高橋の心に刻まれた恐怖は消えなかった。
翌日、報告を受けた他の弟子たちが高橋に話しかけてきた。
「師匠、道場に行っても声がもう聞こえません。何かが変わったんですか?」高橋は言葉を返せず、ただ彼らを見つめることしかできなかった。
その後、高橋は弟子たちと共に稽古を続けたが、彼の心には深い闇が広がっていた。
声が聞こえなくなった理由を知る者はおらず、その後、道場は徐々に訪れる者が少なくなり、最終的には閉鎖される運命を辿った。
高橋の知らぬ間に、彼自身がその代償として壁の向こうに消えた弟子たちの中に取り込まれてしまったのだった。
彼は、もう一度声が響く壁の前で、何もできないまま待つことしかできなくなっていた。