「堕ちる影の宿」

花は、ひっそりとした宿に泊まることにした。
周囲は緑に囲まれ、静寂が広がっていた。
宿の外観は古びていたが、彼女にとってはそれが逆に魅力的に映った。
宿の中に足を踏み入れると、木の温もりとほのかな香りが漂ってきた。
しかし、何かが違和感を感じさせた。
ふと見ると、廊下の端に一つだけ、異常に暗い影が落ちているのが目に入った。

「お疲れ様です」と宿の主人が花に声をかけた。
彼の言葉遣いには丁寧さがあったが、その目には何か不気味さを含んでいるように感じた。
花は一瞬、目をそらした。
宿に長く泊まることは申し訳ないような気もしたが、彼女は心を許すことにした。

夕食を済ませ、花は自身の部屋に戻る。
部屋には暖かな明かりが灯っていて、安らぎを感じた。
しかし、廊下の端にあの影が気になり、彼女は思わず外に出てみることにした。
薄暗い廊下を歩くうち、影の正体を確認しようと近づいていった。

その瞬間、影から何かが現れた。
真っ黒な影が形を成し、花の前に立ちはだかった。
その形は人のように見えたが、目は見えなかった。
ただ、何かを引き寄せるような空気を放っていた。
花は恐怖に駆られ、逃げようとしたが、足がすくんで動けなかった。

影はゆっくりと近づいてきた。
その瞬間、彼女は不意に過去の記憶が甦った。
昨年、彼女が友人と一緒に考えた堕落のテーマに関する話が頭をよぎる。
その内容は、誰かが終わりのない転落の先にいるというものだった。
友人とは、それがどんなに恐ろしいことか語り合ったのに、今、そのテーマがまさか自分に降りかかるとは思ってもいなかった。

影は近づいてくるにつれて、彼女の心に恐怖を根付かせていった。
そして、彼女の耳元で囁いた。
「堕ちる準備はできているか?」何も見えない目の先に、その問いが重く響く。
花は自分の意思とは裏腹に、体が震え始め、心が暴れ出した。
彼女が堕ちていく姿を想像することすらできなかったが、その声は、彼女の思考を支配していた。

「やめて…!」花は心の中で叫んだ。
しかし、その叫びは影に届くことはなく、ただ虚しい響きだけが廊下にこだました。
影は再び小さくなり、彼女の背後を通り過ぎて、宿の奥へと消えていった。

花はその場に立ち尽くし、冷たい汗が全身を流れ落ちていくのを感じた。
やがて、彼女は恐る恐る自室に戻ることにした。
心臓の鼓動が速くなり、廊下の端に戻ることが恐ろしかったが、どうしてもさっきの影が気になった。

その日の夜、眠れぬまま花は考え続けた。
影は彼女に何を求めていたのか?堕ちることに対しての恐怖と期待が交錯した。
彼女が宿の中で何かを抱えている限り、その影は消えることはないのではないか。
宿が持つ闇に囚われることを恐れながら、いつかその堕落の先に行くことになるのではないかと、花は考えました。
夜が更け、影は再び出現するのだろうか。
彼女の心に影が宿り、宿の一部として永遠に続いていくのかもしれない。

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