「囚われの宿」

田村浩二は、古びた町の外れにある民宿に宿を取った。
彼はこの町の静けさを楽しむために一人旅を計画していた。
しかし、その民宿には、地元の人々が恐れ忌み嫌う古い伝説があった。
その民宿の主である老女が、宿泊客の一人を「口の怪」と呼ばれる不気味な存在に誘い込んでしまうというものである。

浩二は、その話を聞いて驚いたが、半信半疑であった。
「ただの噂だろう」と自分に言い聞かせ、何事もなければいいと思いつつ、宿に向かった。

宿の外観は、確かに古いが、何とも言えない趣を持っていた。
宿に入ると、旧式の木造の客間が広がっており、懐かしさを感じた。
そして、老女がにこやかに出迎えてくれた。
その顔には優しさと同時に、どこか不気味さが漂っていた。

晩餐後、浩二は自室に戻り、静かな夜に包まれながら眠りについた。
しかし、深夜、彼は奇妙な声に目を覚ました。
耳元でささやくように、「浩二……ここにおいで。私を助けて…」という女性の声が聞こえる。
それは、どこか温もりを感じさせる声で、浩二の心をかき乱した。

最初は無視しようとしたが、声は増していき、彼の心を捉えた。
次第にその声に導かれるように、浩二は自らの意思に反して、部屋を出て廊下を歩き始めた。
不安が胸をよぎるが、同時に好奇心が彼を突き動かしていた。

薄暗い廊下を進むと、奥の部屋から光が漏れ、明かりに誘われるように進んでいく。
彼がその部屋のドアを開けると、老女が静かに座っていた。
彼女の顔には哀しみの色が浮かんでおり、「私はここに囚われている。あなたが助けてくれるというのなら、ずっと一緒にいてあげるわ…」と囁いた。

浩二の心は冷え切った。
まるで彼女が宿の一部であるかのように感じられた。
彼は必死に逃げようとしたが、老女の手が強く彼を掴んだ。
「戻ることはできないのよ、私のところにおいで。さあ、ここから出ておいで…」

彼女の言葉が続く中、浩二は恐れを感じ、心を決めた。
「私は戻る。お前の言葉には騙されない!」彼は手を振りほどき、必死に部屋を飛び出した。

廊下を駆け抜けると、心臓が鼓動し、足がもつれていく。
急いで階段を降り、宿の出口に向かう。
だが、老女の声は耳元で響き続け、彼を再び引き寄せようとする。
「戻ってきて、浩二……私が必要なのよ…」

外に出た瞬間、彼は深呼吸をし、振り向いた。
明かりがともる部屋の窓から、老女が悲しげに手を振っている姿が見えた。
浩二はその顔に違和感を覚えた。
彼女の表情には、自らの運命に囚われた者の哀しみが宿っていた。

その瞬間、浩二は理解した。
老女は単なる宿の主人ではなく、口の怪に取り込まれた無数の宿泊客の存在であり、彼女の誘いは逃れられない運命そのものであった。
彼は自分がその罠にかかるかもしれないという恐怖に駆られ、逃げ出さざるを得なかった。

床を踏みならし、町を離れるにつれ、彼は振り返ることなく宿の影を背にした。
未練の残る声が、彼の耳元で消えていく。
彼はもう二度と戻ることはないと誓った。
逃れた先に待っているのは平穏な日常か、それとも別の恐怖なのか、浩二の心には複雑な思いが渦巻いていた。
だが、今はただ、あの宿が彼の記憶から消えていくことを祈るしかなかった。

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