ある静かな夜のこと、田中はずっと気になっていた廃屋を訪れる決心をした。
近所ではその屋敷が不気味な噂で囁かれており、夜中にその屋に入る者は決して戻ってこないという雑談が広まっていた。
しかし、田中はその真相を確かめたいと、怖いもの知らずの思いを抱えて、その屋敷に向かった。
屋敷は、古びた竹の柵に囲まれ、周りの木々が生い茂り、隠れるように佇んでいた。
明かりのない道を進むうちに、田中は薄れゆく月明かりを頼りにして、心臓が高鳴り始めていた。
彼が近づくに連れて、いっそうその屋敷の陰が深く感じられる。
建物の入り口は、錆びついた扉がかすかな音を立てて開き、まるで迎え入れるかのようだった。
田中は思い切って中に入った。
屋内は暗く、何も見えなかったが、微かに感じる冷たい空気が彼の背筋を凍らせた。
視界が慣れてくると、瓦礫の散乱した床や、かつての家具の残骸が目に入った。
そして、彼が立ち尽くしていると、突如として耳元でささやくような声が聞こえた。
「来てくれたのね…」
その鋭い声に驚いた田中は、すぐさま振り返るが、誰もいない。
微妙に変わった空気感が再び彼の喉を締め付ける。
思わず後ろに下がると、床が軋む音がした。
目の前の暗闇から、一瞬何かが動いた気がした。
田中は震える手でスマートフォンのライトを点けてみると、壁際にぽつんと立つ影が見えた。
それは病的に横たわる異様な姿。
彼は息を呑み、立ちすくんだ。
その影は、女性のようで、どこか儚げな装いをしていた。
彼女は、ほとんど透明で、明らかに現実とは異なる存在であった。
「私を助けて…」声には力がなく、虚ろだった。
田中はその怯えた声に引かれるように、彼女の元へと歩み寄った。
そこまで近づくと、彼女の姿が次第に明瞭になり、彼女の顔が見えた。
『行ってはいけない場所を知らなかったの?』彼女が語りかけてきた。
田中は、混乱する思考の中で、声の主に質問をした。
「君は誰なの?」その瞬間、彼女が驚いたように大きな目を見開いた。
「私の名前は、乗(のり)」と答えた。
田中は思わず背筋が冷たくなった。
近所の者たちから噂を聞いていた「乗」とは、この屋敷で姿を消した少女の名だったからだ。
その夜、田中は彼女がこの屋敷に囚われ、誰も救い出せないことを理解した。
彼女は、過去の出来事が忘れられずに束縛されていた。
彼女を助けたいという気持ちが、田中の心の中でぐるぐると渦を巻いた。
しかし、どうすることもできず、彼はただ立ち尽くすしかなかった。
ふと、田中は思い知らされた。
その屋敷の中には、彼女の怨念や悲しみが渦巻いていることを。
そこにいることが、彼自身をも蝕むということに。
彼は急に恐怖が襲い、逃げ出すことを決意した。
振り返ると、乗はいつの間にか消えていた。
田中は急いで屋外に出たが、冷たい風が彼を襲い、後ろから女の声が「行かないで…」と囁くのが聞こえた。
恐怖心が湧き上がり、彼は必死に走りだし、振り返らずに道を離れた。
その後、田中はこの出来事を誰にも話せずにいる。
今でも、あの屋敷に行く気にはなれない。
だけれど、時折夢の中であの少女の姿が現れ、彼を呼ぶ声が聞こえることがある。
それが何を意味するのか、確かめる勇気は今もない。