「囚われた囁き」

晴れ渡る夏の日、田中健一は友人たちと共に、地方の古びた宿に泊まることに決めた。
その宿は風情ある日本家屋で、周囲は緑に囲まれた美しい環境だった。
宿の主人は高齢の女性で、丁寧な接客で知られていたが、噂ではその宿には「口の怪」という不気味な現象があるという話を聞いていた。

その「口の怪」とは、宿の一室に宿泊すると、夜の間に誰かのささやき声が耳元で聞こえ、その声に従ってしまうというものであった。
従った者は、次第に声に取り込まれ、戻れなくなるという伝説があった。
しかし健一たちは半信半疑で、その話を笑い飛ばしていた。

夜が更け、友人たちはそれぞれの部屋に分かれて眠ることにした。
健一は自室の窓を開け、涼しい風を感じながらリラックスし、心地よい眠りに落ちた。
しかし、深夜、彼は何かの気配を感じて目を覚ました。
真っ暗な部屋の中、静寂が支配していたが、次第に耳元で微かな声が聞こえ始めた。

「健一……私を助けて……」

その声は女性のもので、健一は驚きと恐怖を感じたが、その声にどこか惹かれてしまった。
彼は身体が動かないまま、無意識のうちにその声に応じて口を開いた。

「誰……?」

すると声はさらに強くなり、ささやくように続けた。
「ここから出てきて、私のところへ……」

健一の心は不安と好奇心で揺れ動く。
声に誘われるまま、彼は部屋を出て宿の廊下を歩き出した。
薄暗い廊下を抜け、声の方向に進んでいくと、宿の奥にある一室が気になった。
ドアは開いていた。

その部屋の中には、薄明かりの中で何かがうごめいているのが見えた。
恐る恐る中に入ると、そこには一人の女性が立っていた。
彼女の顔は美しくもどこか冷たい印象を与え、目には哀しみの色が浮かんでいた。

「あなたは……誰ですか?」健一は言った。
その瞬間、彼女の口から流れるように言葉が続いた。

「私はここに囚われている。助けて欲しい。」

健一はその言葉を真に受け、無意識のうちに彼女の手を取った。
その瞬間、彼女の目が恐ろしいほどに変わり、笑みを浮かべた。

「いい子ね。私と一緒に、ずっとここにいよう。」

健一は恐怖に駆られ、すぐに手を引っ込めようとしたが、彼女の手は強く彼を掴んだ。
彼の心は怯え、身体は動かず、声が喉に引っかかった。
その時、彼の耳元であの声が最も近くに感じられた。

「私がいなくなったら、誰があなたを助けるのかしら?」

その瞬間、健一は彼女がまるで宿の一部であるかのような感覚を覚えた。
彼女はこの宿に囚われた者たちの残留思念のような存在なのかもしれない。
健一は必死に逃げ出さなければならないと考え、振り返る。
しかし、扉は閉まっていた。

「どうしたの? もう逃げるの?」彼女は微笑みながら言った。
「私を助ければ、代わりにずっと一緒にいてあげるわ。」

その瞬間、健一は冷静さを取り戻した。
「私は何も助けない。お前が私を囚えようとしているだけだ。」

健一は叫び声を上げ、自らの心に決意を固めた。
彼は後ろを振り返り、扉を叩いた。
「助けてくれ!」と叫ぶも、声音は虚しく響きわたる。

しかし、彼は決して彼女の言葉に耳を傾けてはならないと、心に固く誓った。
やがて、扉が開き、友人たちの声がした。
その音に背中を押され、彼は急いで部屋を飛び出した。

宿を飛び出し、友人たちと合流した健一は、今しがたの出来事を詳しく語ることはできなかった。
だが、彼には確信があった。
「口の怪」の正体は、未練を持つ者たちを飲み込む存在だということを。

宿を後にする際、健一は心の奥底に恐怖の影を抱えながらも、もう二度と戻らないことを誓い、深い眠りから解き放たれたのだった。

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