「向かう先の影」

彼の名前は佐藤健一、30歳の普通のサラリーマンだ。
日々の忙しさに追われ、家と職場の往復だけで心を休める暇もない。
ある日、彼は上司から古い資料を整理するように指示を受けた。
それは何年も前に廃止されたプロジェクトに関するもので、彼の興味を引くような内容ではなかった。
だが、健一は仕事を終えた後も、その資料に目を通すことにした。

資料の中には、詳細なプロジェクト計画やデータが記された文書が含まれていた。
読み進めるうちに、彼は一つの奇妙な現象に気づく。
計画書の中にある「向」という言葉が頻繁に使われていたのだ。
それは、「向」に関する実験的な研究であり、参加者の記憶や思考に影響を与えるものだった。
彼の中に好奇心が芽生え、さらに深く調べる決意をした。

夜が深まるにつれ、健一は一人作業を続けていた。
周囲は静まり返り、彼のパソコンの青白い光だけが明かりを照らしていた。
突然、何かが彼の背後で動いたように感じた。
振り返っても誰もいない。
だが、異様な寒気が彼の背筋を走り抜ける。
健一は気のせいだと思い、再び資料に目を戻した。
向に関する情報をもっと探るほどに、彼の心の中に不安が募っていった。

すると、あるページが目に留まった。
「亡くなった参加者の記録」と題されたそのページには、実験に参加した人々の名前が並んでいた。
その中には、彼の知らない名前も多かったが、ふと健一は自分の親友である「佐々木雄二」の名前を見つけた。
驚愕した健一は、雄二が昔この実験に参加していたことを思い出す。
彼は数年前に突然亡くなり、健一はその原因についてずっと謎を抱えていたのだった。

その瞬間、パソコンの画面が一瞬で真っ暗になった。
健一は焦りながら再起動しようとしたが、電源が入らない。
困惑する彼の耳に、かすかに「向」という声が響いてきた。
どこからともなく聞こえてくるその声は、まるで彼を呼び寄せようとしているかのようだった。
恐怖が彼を悪夢に引き込む。

その夜、彼は夢を見た。
夢の中で、彼はかつての親友、雄二と再会していた。
彼はいつもと変わらぬ笑顔で、健一に向かって手を振っていた。
しかし、その背後には冷たい霧が立ち込めており、まるで何かを遠ざけようとしているかのようだった。
健一はその姿に引き寄せられるように近づいたが、同時に「果たして君の選択は正しかったのか?」という何かが彼の心に問いかけている気がした。

次の瞬間、健一は目を覚ました。
周囲は真っ暗で、静寂に包まれていた。
ふと気付くと、自分のパソコンが消えた部屋の中で唯一、彼の手元に持っていた資料の一部が失くなっていた。
「記憶の一部が消えたのかもしれない…」彼は心の奥底で感じていた恐怖を整理しきれなかった。

翌朝になると、健一はこの出来事を他人に話すことができなかった。
職場に行くと、彼は雄二の名前に何らかの力が宿っているような気がした。
資料の再確認をしながら、彼は雲行きが変わるような感覚を覚えていた。
自分の目の前の現実と記憶の間に、何か大きな裂け目ができつつあると感じた。

結局、彼は資料の中に眠る謎を解明することなく、ただ心の中でその影を抱え続けることになった。
彼の中に残った記憶と彼が直面する現実、そのどちらも曖昧に消えてしまうような不安に包まれながら、佐藤健一は静かに日々を送っていくのだった。
今でも時折「向」の声が耳元で囁くことがあり、それを振り払うことができない。
彼は記憶を抱えたまま、ずっとこの孤独な旅を続けていくのだろう。

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