「台所の隙間に潜むもの」

少し薄暗い台所で、佳奈(かな)は一人、夕食の支度をしていた。
外は既に暗くなり、窓の外には静かな夜の帳が降りている。
彼女は食材を刻みながら、時折、家族の声が聞こえるリビングへ目をやった。
両親と弟の裕也(ゆうや)がテレビを見ている。
そんな和やかな雰囲気の中、佳奈は何かが彼女を不安にさせるかのような、心のざわつきを感じていた。

その感覚は、まるで離れた場所から自分を見つめられているようなものだった。
佳奈は気のせいだと思い込もうとしたが、それは日を追うごとに強まっていった。
ある晩、台所で料理をしながらも、ふと背後に視線を感じて振り返ると、誰もいないことに気づき、心拍数が上がる。
彼女は気のせいだと考え、無理に笑顔を作って両親に話しかけるのだった。

そんなある日のこと、佳奈は友人の美咲(みさき)から話を聴いた。
彼女は「最近、変なことがあったんだ」と暗い表情を浮かべていた。
美咲の話によれば、夜に一人でいると、人の気配を感じる、しかもその正体はまるで自分を知っているかのように近づいて来るのだという。
美咲はそれを無視しようとしたが、ある晩ついにそれに話しかけられたのだ。
「ずっと一緒にいたい」と。
その声は美咲の耳に焼き付いて離れなかった。

佳奈はその話を聞き、自分にも似たような現象が起きていることを思い出した。
もしこれが同じ存在だとしたら…。
そんな思いが彼女を再び不安にさせた。
佳奈は自分の家にも何かがいるのかもしれない、そんな恐怖心が日増しに強くなってきた。

数日後、独りで台所に立っていると、またしても後ろに冷たい視線を感じた。
今回はその視線が明確に背中に感じられ、思わず身を震わせてしまう。
佳奈は心を決め、振り向く。
そして、目にしたのは自分と同じくらいの年頃の少女だった。
その子は無表情で、ただこちらを見つめていた。
何も言わず、ただ静かに立っている。

「あなた、誰?」佳奈は声を震わせながら問いかけたが、少女はただじっと見つめ返すだけだった。
恐怖で心臓が鼓動を強めていく。
それでも佳奈は一歩踏み出した。
「離れて!」そう叫んだ瞬間、少女の姿は流れるように消えていった。

その夜、佳奈は夢を見た。
誰かが彼女の名前を呼び続ける。
目が覚めると、彼女は自分の部屋で身体が重たいと感じた。
寝室の方を見ると、再び少女が立っていた。
彼女の顔は徐々に明晰になり、その姿は美しさを持っていたが、どこか哀しみを帯びている。

「お願い、私を忘れないで」と、少女は静かに言った。
佳奈は戸惑いながらもその言葉の意味を考えた。
自分と何か関係があるのか、なぜ自分に近づいているのか、理解できなかった。
しかし、心の奥では少しずつ、彼女に何か特別な意図があるように感じ始めていた。

数週間が経ち、佳奈はついに少女に向き合う決意をした。
彼女に何を伝えたいのか、何を求めているのか、真剣に向き合おうと。
再び台所で、一人静かに考え込みながら彼女に呼びかけた。
「何があったとしても、私はあなたのことを忘れない。」

その時、台所の空気が変わったような気がした。
佳奈の周囲に暖かな光が広がり、少女は笑顔を浮かべた。
彼女はゆっくりと近づき、佳奈の手に何かを握らせると、再び姿を消していった。
それは小さな銀の鍵のようだった。
そしてその瞬間、佳奈は彼女の呪縛から解放されたような感覚を味わった。

以来、少女の姿を見かけることはなくなったが、佳奈の心にはずっと彼女の存在が残り続けた。
彼女は忘れない、と心に誓うことで、少女に自由を与えたのだった。
時々、ふとした瞬間に思い出す彼女が、微笑んでいる姿を想像しながら、佳奈は日常を生き抜いていくのだった。

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