「口に宿る願い」

ある寒い冬の晩、東京の小さなアパートに住む佐藤は、心細さを感じながら布団に包まっていた。
彼は一人暮らしをしており、日々の忙しさから解放される瞬間を求めて、ネットで心霊スポットの情報を探していることが多かった。
その夜、偶然見つけたのは、かつての住人が失踪したと噂される古い団地の話だった。

団地の名は「口のある団地」。
廃墟となったその場所には、口を持った奇怪な顔の落書きが無数にあり、その口が何かを呟くという現象が起きると伝えられていた。
興味を持った佐藤は、思い切ってその団地を訪れることにした。

翌日、彼は寒さに震えながら団地へと向かった。
着いたその場所は、噂通りの不気味な雰囲気に包まれていた。
崩れかけた壁と草が生い茂る廊下に、かつての住人たちの思い出が残っているかのようだった。
しかし、何かが彼を惹きつける感覚があった。

佐藤はさらに奥へ進んだ。
薄暗い廊下の先には、最も目立つ部屋があった。
その部屋のドアはわずかに開いており、何か引き寄せられるように中に入っていった。
すると、その瞬間、彼の耳に「助けて…」というかすかな声が響く。
いや、声は耳ではなく、心の奥深くに何かささやいているようだった。

驚いた佐藤は、声の正体を探るべく部屋を調べ始めた。
彼の目に飛び込んできたのは、壁に描かれた無数の口の絵だった。
その一つ一つがまるで生きているように見え、彼の方を見ている気がした。
彼は恐怖に震えながらも、心のどこかでその絵たちが何かメッセージを伝えようとしているのではないかと思った。

「望が欲しい…」という声が再び響く。
佐藤はその声が、かつてこの団地に住んでいたたくさんの人々の思いなのだと直感した。
彼らは何かを強く望んでいた。
そして、その望みは何らかの理由で現実にならず、永遠にここに留められているのだと。

部屋の奥には古い鏡が置いてあった。
鏡の中には、彼自身の姿と共に、かつての住人たちの姿が一瞬映り込んだ。
顔が苦しみで歪み、助けを求めているかのようだった。
佐藤は身震いし、逃げ出そうとしたが、無意識のうちにその鏡に近づいていた。

「あなたも、一緒に望みを叶えてほしい…」その瞬間、壁の口が一斉に開いた。
呆然とした佐藤は、恐怖から逃げようとしたが腰が抜けて動けなかった。
しっかりとした声が彼の心に響いてくる。
「助けて…私たちを…」

その声が彼を呑み込み、無数の口から吐き出される言葉の洪水に飲み込まれるように感じた。
「助けたいのか…それなら、私たちの望みを叶えてくれ…」佐藤は必死に思考を巡らせ、何が答えとなるのかを考えた。
一体どんな望みなのだろうか。

しばらくすると、静寂が訪れた。
彼が恐怖で固まっていると、周りの口が静かにひらき再び呟く。
「私たちの名前を呼んで、思い出して…私たちを忘れないで…」

その言葉が彼の心を捉え、彼は思わず口に出して言った。
「僕は、あなたたちのことを忘れない…」その瞬間、団地が揺れ、目の前の景色が変わり始めた。
口のある落書きが動き出し、まるで彼に何かを伝えようとしているかのようだった。

光が溢れ出し、佐藤は一瞬視界が白くなった。
その輝きの中で、彼は何かが彼の中に流れ込んでくるのを感じた。
望みは叶えることができなかったが、彼はその温かい感覚を胸に秘めて、この団地を後にすることになった。

再び外に出たとき、彼は確信していた。
この団地の存在を忘れない、失われた人々の思いを語り継ぐことこそが、彼らを救う新たな希望になると。
そして、彼の中には、囁き続ける「望」があった。
彼はそれが、決して消えることのない思い出になった。

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