「別れの影」

夏のある日のことだった。
野村明は、都会の喧騒から逃れ、数日前に亡き祖母の住んでいた田舎の家に滞在していた。
祖母は彼にとって特別な存在だったが、その家には秘密が眠っていることを彼は感じていた。
明は家の中を探検し、古びた日記や写真、祖母が昔描いた絵などを見つけた。
特に一冊の古い小冊子が彼の目を引いた。
その表紙には「秘密」とだけ書かれてあった。

夜が訪れると、明はその小冊子を手に取って、祖母の思い出を思い出しながら読み始めた。
内容は、祖母の若い頃の友人たちとの出来事だった。
明は驚いた。
友人の中に、彼と同じ名前の「明」という人物が書かれていたからだ。
その明は、家の近くにあった古い長屋に住んでいたという。
しかし、日記を読みすすめるにつれ、異様な記述が増えていった。

「友人が長屋で起こった出来事を語った。」という部分から始まるそれは、友人たちが夜になると神秘的な現象に悩まされたことを綴っていた。
家の奥から聞こえるささやき声や、長い影が現れること、そして消えていった者たちのことが書かれてあった。
消えた者は、再び姿を現すことはなかったという。

明は不安を覚えたが、好奇心も捨てきれなかった。
家の近くにある長屋を訪れ、その謎を解き明かそうと決心した。
月明かりが照らす中、長屋の扉を開けて中に入った。
薄暗い廊下を進むと、ひんやりとした空気が彼を包み込んだ。
周囲は静まり返り、ただ耳に残るのは、彼の心臓の鼓動だけだった。

その時、彼は再びあのささやき声が響くのを聞いた。
「いらっしゃい、明。」彼の名前を呼ぶ声だった。
驚きと恐怖で身がすくみ、足が重く感じられたが、さらに進まないわけにはいかなかった。
声は、彼を奥の部屋へ導くように響いている。
明は躊躇しながらも、その声に導かれるように進み続けた。

扉の前に立った時、彼は一瞬ためらった。
ノブを回す手は震えていた。
扉が開くと、暗闇の中に一部屋の光が漏れていることに気づいた。
そこには、何か不気味な存在があった。
明は驚きで目を大きく見開いた。
そこには、祖母の若い頃の姿をした女性が立っていた。
驚くべきことに、その女性も彼の名前を呼んでいた。

「明、あなたが来るのを待っていたの。」その時、彼には理解できなかったが、何かが彼の心の奥底に響いた。
長屋に住んでいた友人たちと同じように、彼女も過去の思い出に拘束されているのだろうか。

彼は必死に尋ねた。
「あなたは誰ですか?そして、祖母はどこにいるの?」彼女は静かに答えた。
「私たちは、別の世界にいる。でも、あなたがここに来たことで、選択しなければならなくなったの。」

誰にでもあるような選択の瞬間、長い間悩んでいた祖母の友人たちが姿を現し、彼を取り囲んだ。
明はその視線に圧倒され、彼女たちが何を求めているのかが分からなかった。
しかし、分かっていたことは一つだけだ。
このままここに留まることは選ばなかった。

「私には帰る場所がある!」と彼は叫んだ。
でも、彼の目の前に広がる光景は、彼を持って行こうとしている影たちで溢れていた。
「私を連れていかないで!」と必死に叫ぶが、その声は無情に反響した。

気がつくと、彼は長屋の外に立っていた。
月明かりが濃い霧を照らし、あたりは静寂に包まれていた。
振り返ると、長屋は消え、ただ静かな田舎の風景が広がっているだけだった。
明は何を失ったのか、その真実を知ることはできなかった。
彼は何も覚えていない。
別れたはずの祖母は、そして彼自身がどこへ消えてしまったのか。
夜の暗闇の中、明の心には終わりのない不安だけが残った。

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