夫妻は幸福に満ちた日々を送っていた。
特に、妻の由美は夫の信之を深く愛していた。
しかし、由美には誰にも言えない秘密があった。
それは、彼女が一度だけ目にした不気味な夢に関することであった。
その夢の中で、彼女の名前が真っ黒な字で壁に刻まれているのを見た。
目が覚めたとき、由美はその出来事を忘れようとしたが、心の奥底ではその夢が重くのしかかっていた。
夢の中の字は、まるで彼女を見つめているかのように感じられ、日常生活に影を落とし始めた。
由美は次第に何か悪いことが起こるのではないかと不安を抱えるようになった。
ある日、信之が仕事から帰宅すると、由美は部屋の片隅で無表情に座っていた。
しかし、彼の目には、由美の目の前にある古い鏡に何か異変が起こっているように感じられた。
鏡の中には煙のような物体が見え隠れし、そこから浮かび上がった無数の字があった。
「見せて、由美。何を見ているの?」信之が声をかけると、由美は驚いたように顔を上げた。
そして、思わず手を鏡の方に伸ばす。
そこに映し出されたのは、「信を信じるな」という言葉だった。
彼女はその瞬間、恐怖で全身が震えた。
夢の中の現象が現実に現れたのだ。
由美は信之を信じていると自負していたが、その言葉は彼女の心に深い疑念を植え付けた。
信之にそのことを話すべきだろうか、それとも黙っておくべきだろうか。
由美の脳裏には、夢の中の自分が不気味な笑みを浮かべながら自分を見つめる姿が蘇った。
その夜、目が覚めた由美は再び夢を見た。
今度は、鏡の前ではなく、真っ暗な部屋の中にいる自分がいた。
周りには何もなく、手すら動かせないほど重苦しい空気に包まれていた。
すると、彼女の周囲が明るくなり、そこに浮かび上がったのは再びあの言葉だった。
「無」だった。
由美は理解した。
この「無」は、彼女が抱いていた不安や恐れを象徴しているのだと。
翌日、由美はついに信之に話す決心をした。
自分の中でこの不安を抱え続けることは、彼との関係に悪影響を与えると感じたからである。
しかし、彼に話すと、信之は驚いた様子で二度目の言葉を出した。
「どんな夢なの?」由美は「無」や「信」という言葉が夢に出たことを告げたが、信之の顔には理解できない様子が浮かんだ。
その晩、由美が夢を見ていると、再びあの黒い字が現れた。
「信じる者は、無に帰す」その言葉が何度も繰り返され、耳にこだましていた。
彼女は目を覚ましたとき、心に大きな重圧を感じていた。
信之を信じることができていないのだ、その不安が彼女を苦しめていた。
ある日、由美はついに決意して、信之に言葉を返した。
「私が感じる恐れは、あなたに対する不信感から来ているのではないかと…。でも、あなたを愛しているから、私の中のその無を乗り越えられると思いたい。」信之は静かに彼女を見つめ、何も言わなかった。
彼のその態度が由美をさらに不安にさせる。
日が経つにつれて、由美は次第に鏡からあふれ出る文字の影響を受けなくなったように感じた。
しかし、ある晩、彼女は再び鏡の前に立った。
鏡には自分自身が映っていたが、突然その映像が変わり、彼女の後ろに信之の姿が映り込んだ。
その瞬間、由美の心は一瞬凍りついた。
信之は何かを告げるように唇を動かしていたが、その言葉は聞こえなかった。
由美は恐れを感じながらも振り返ることができなかった。
「信じる者は、無に帰す」その言葉が、彼女の耳に再び響き渡った。
それ以来、由美の心には信じることへの疑念が色濃く影を落とすようになり、彼女の日常は暗い影に包まれてしまった。
信之との生活は次第に歪み、由美は一人で鏡の言葉と向き合うことになった。
それでも、彼女は信之を愛していると信じたかった。
しかし、夢の中の言葉が示す通り、やがて彼女の心の中には深い無が存在することになる。
彼女はその無に飲まれてしまう日が来るのかもしれなかった。