「井戸の底からの呼び声」

夏のある晩、友人たちと一緒に海に出かけた健太は、静かな港町の近くにある「た」という場所にたどり着いた。
港には古びた船が何隻か係留されており、その中で一際目を引くのが「梨雪」という名の古い漁船だった。
友人の圭介がその船を指差して、「これ、なんだか気になるね」と言った。

「ちょっと中を見てみようぜ」と言うと、他の友人たちも賛同し、梨雪の中に乗り込むことになった。
船内は薄暗く、匂いがこもっているようだった。
長い間使われていなかったらしいその船には、ホコリが積もり、かつての繁栄を示すような古い漁業道具が散乱していた。

「おい、これなんだ?」健太が声を発したのは、船の後部にある小さな井戸だった。
外から見る限りでは何の変哲もないように思えたが、井の中には不気味な影が見えていた。
「なにかいる!」大声で叫んだ圭介に、友人たちは驚いて井戸の方を凝視した。
しかし、そこにはただ静寂が広がっているだけだった。

「お前、何見てんの?」別の友人が笑い飛ばしたが、圭介の顔から笑顔は消えていた。
「俺、なんかゾッとする。なんでこんなとこに井戸があるんだ…」

その時、急に船が揺れ始め、不穏な雰囲気に包まれた。
「早く出ようぜ!」健太が声をかけると、友人たちも同様に恐怖を感じ、船の外へと逃げ出した。
しかし、井戸の周りには何かの気配が漂っているようだった。
彼らがその存在をただの偶然だと思い込もうとすればするほど、井戸からの視線が彼らを捉えているように感じた。

外に出ると、夜の海は静まり返り、ただ波音が遠くから聞こえていた。
友人たちは一度戻ろうとしたが、圭介が「待って、もう一度井戸を見よう」と提案した。
「今度は一人で見てくるから、心配するな」と言う圭介に、他の友人たちは戸惑いながらも彼の決意を尊重することにした。

圭介が井戸に近づくと、そこから冷たい風が吹き出してきた。
「怖けりゃ帰れよ」と、友人たちが言う中、彼は井戸の中を覗き込んだ。
そこには、暗闇の中に何かが蠢いている様子が見えた。
「誰かいるのか…?」彼は呟いたが、井戸の中からは返事がない。

突然、圭介が何かに引き寄せられるように井戸に身体を傾けた。
「やめろ、危ない!」と健太が叫んだが、彼の声が届く前に圭介は井戸の縁を越えて落ちてしまった。
友人たちは急いで助けようとしたが、井戸からはもう彼の姿が見えなかった。

その後、数日間圭介が行方不明になり、友人たちは不安を抱えながら港に集まった。
港の人々は、梨雪の井戸には不気味な伝説があると言っていた。
古くからその井戸に飛び込んだ者は二度と戻らないという。
健太たちは半信半疑だったが、圭介の姿が見えない以上、その伝説を思い出さずにはいられなかった。

夜が近づくにつれ、友人たちは集まって穴の周りで待っていた。
圭介が戻ってくることを願いながら、井戸に目を向けた。
しかし、井戸の奥深くから、徐々に何か黒い影が浮かび上がってくるのに気づいた。
それは、圭介の顔に似ていた。

「助けてくれ…」その声は確かに圭介のものだった。
しかし同時に、何か不気味なものも感じた。
友人たちは怯え、後すがりに逃げようとしたが、その瞬間、井戸から吸い込まれるような力が働き、彼らは動けなくなった。

一人一人がその場から消えていく中、健太だけが手を伸ばして逃げようとした。
しかし、そこにはもう誰もいなかった。
暗闇の中、圭介の声が再び耳に響く。
「帰れ…帰れ…」

それから、梨雪は誰の目にも触れなくなり、港町の人々はそのことを忘れたように振る舞っている。
しかし、夜になると、井戸の奥から何かの声が絶えず響いていると言われている。

タイトルとURLをコピーしました