狭いアパートの一室に、佐藤直樹は一人で暮らしていた。
彼は東京での生活に疲れ果て、少しでも静寂を求めて引っ越してきたが、この狭い部屋はますます彼を孤独に追いやった。
彼は新しい環境に馴染めず、仕事のストレスと相まって、不安感が募っていた。
そんなある晩、帰宅した直樹は、何かおかしな気配を感じた。
誰もいないはずの部屋の中で、微かに「ひとしずく」という言葉が囁かれるように響いていた。
彼は耳を澄ませ、その声の正体を探ろうとしたが、何も見えなかった。
思わぬ霊的な現象かと思い、怖れよりも興味が勝った直樹は、その声に従ってみることにした。
次の日、彼は仕事帰りに近くの小さな神社を訪れた。
境内には人が少なく、静寂が広がっていた。
そこで出会ったのが、神主の老婦人だった。
彼女は直樹の様子を見て、何か悩みがあるようだと声をかけてきた。
その瞬間、彼も気づいた。
「この声は、彼女から来ているのかもしれない」と。
直樹は老婦人に、自分のアパートで感じている不気味な現象について話した。
しかし老婦人は、ただ静かに耳を傾けた後、「これは、過去にこの場所で起こった出来事がまだ残っているのかもしれない」と言った。
「このアパートの前は、誰かが強い思いを抱えて逝った者がいる。彼の想いはこの狭い空間の中に閉じ込められ、今も彼を求め続けているのだ」と。
直樹は不安を感じつつも、そのことに興味を持った。
壇にしてくれた老婦人の言葉を信じ、彼はもう一度部屋に戻った。
そこで彼は静かに目を閉じ、声を聞こうとした。
「ひとしずく、ひとしずく」と、ささやく声がどこからか聞こえてくる。
「私を忘れないで」「私の名を呼んでほしい」とそれは続く。
直樹は心の中で、その声に応えた。
「名前はなんですか」と尋ねると、静かに返答があった。
「私の名は美樹。過去にこの部屋で終わりを迎えてしまった者です。私の心はまだこの場所に縛られています。助けてください」と。
その名は、直樹の記憶の中にあった。
彼の親友であった美樹は、数年前に不慮の事故で亡くなっていた。
直樹はその出来事を未だに引きずり、心の奥に隠し続けていたのだった。
彼女のことを思い出し、彼女が何を求めているのかを考え始めた。
時間が経つにつれ、直樹は次第に美樹と会話を重ねるようになった。
そして彼女の想いの重さを知り、その想いが彼女自身を縛り付けていることに気づいた。
「私はあなたに、私のことを覚えていてほしい。私のことを記憶として残し、還さなければならない」と彼女は願った。
だが、彼女の内なる苦悩は薄れず、ますます彼を引き寄せていく。
直樹は決心した。
美樹の想いを解き放つために、彼女の存在を周囲に伝え、記憶に刻むことを決意した。
彼は日記を綴り、友人との思い出を描き続け、彼女の名と想いを忘れないよう努力した。
こうして少しずつ、美樹と直樹は共存する関係に変わっていった。
だが、ある晩、再び「ひとしずく」の声が響いた。
直樹は驚きながら振り返り、声の主を探った。
しかし、そこにいたのは何もない空間だった。
直樹は混乱し、「美樹?どこにいるんだ?」と叫んだ。
静寂だけが返ってきた。
その時、彼は理解した。
この声は、美樹の最後の呼びかけだった。
彼女は彼を思い続け、この世に留まることなく、記憶の中で生き続けてもらいたかったのだ。
直樹は再び彼女の存在を確かめ、室内の薄暗い空間に向き直った。
「かわりに生きるよ」と呟き、彼は再び美樹を思い、覚え続けることを約束した。
この狭いアパートの中で、彼女はこれからも彼の心の中で確かに生き続けることになるだろう。