ある静かな夜、田中は帰り道を急いでいた。
繁華街から離れた細い道を一人で歩くその道は、普段は明るく賑やかだが、今は人影もまばらで、街灯の薄暗い光がどこか不気味に感じられた。
心に不安がよぎったが、田中はただ帰りたかった。
彼の頭の中には、友人から聞いた「霊の話」が渦巻いていたからだ。
その夜、道を歩くと、不意に耳元でかすかな音が聞こえた。
風の音ではない。
何かの囁きのような、遥か彼方からの呼びかけが聞こえる。
田中は思わず立ち止まり、周囲を見回した。
しかし、誰もいない。
不吉な気配を感じながらも、彼は無理に歩き続けようとした。
その時、再び音が聞こえた。
「田中…」と自分の名前を呼ぶかすかな声だった。
驚きと恐怖で心臓が高鳴る。
彼は振り返ったが、後ろには誰もいない。
もしかしたら、幻聴か何かかと思ったが、それが彼の頭から振り払うことはできなかった。
実際に誰かがいるのかもしれない。
その思いが彼をさらに不安にさせた。
音は徐々に強くなり、さまざまな声が混ざりあうようになった。
「助けて…」「帰りたい…」「まだここにいる…」それは、まるで多くの人々が一斉に呼びかけているかのようだった。
田中は恐怖のあまり、持っていたスマートフォンを取り出し、懐中電灯を点けた。
しかし、道は暗く深い霧に包まれ、かすかな光すらも意味を持たなくなってしまった。
音に導かれるように田中は歩き続けた。
目の前に現れたのは、朧げな影だった。
彼の目に映ったその姿は、ぼやけているが、表情はどこか悲しそうだった。
影はどうやら人間のようだが、その顔が見えなかった。
田中は恐る恐る近づくと、影はふっと消えてしまった。
心が騒がしくなり、田中は振り返ろうとした瞬間、声が響いた。
「私の魂を…忘れないで…」
その声は、まるで遠くから届くようだった。
田中は冷や汗をかきながら、再び足を進めたが、今度は揺れる影が現れた。
それは道端に座り込む少女のようだった。
顔は見えなかったが、その姿がどこか懐かしい。
彼の心の奥底に、見覚えのある影が甦ってきた。
もしかして、彼と同じ学校の同級生、希だったのかもしれない。
田中は彼女の名前を呼んだ。
「希…！」
その瞬間、影は振り向いた。
見る間にその顔がはっきり見えた。
だが、彼女の目には悲しみが宿り、そこに浮かぶのは透明な涙だった。
田中は胸が痛んだ。
希は彼が知る限り、時折学校で孤立していた女の子だった。
そして彼は、彼女を助けられなかったつもりでいた。
「私を…忘れないで…」希は繰り返す。
音が周囲に響き、さまざまな声が重なり、彼女の悲しみがひしひしと伝わってくる。
田中はその瞬間、彼女の魂が救われるように何かをしなければならないと思った。
「希、私は君を忘れない！みんなで君を見守るよ！」そう叫ぶと、影は一瞬緩やかに微笑んだ。
次の瞬間、その姿は消え去り、代わりに周囲は静寂に包まれた。
田中はこれまでの恐怖が霧散したように感じた。
音も消え、道にはただの風の音だけが響いていた。
彼はもう一度歩き出す。
帰り際、ふと足元を見ると、そこに小さな花が咲いているのを見つけた。
それは、彼と希の記憶のかけらのようにも思えた。
田中は静かにその花に手を合わせ、そのまま静かに帰路についた。
彼の心の中には、希の魂が永遠に生き続けることを願う気持ちがささやかに宿っていた。
