ある古い町の外れに、ひっそりと佇む「いわみ旅館」があった。
この旅館は、昔からの風情を残しながらも、宿泊客が減少する一方で、ここの常連客だけが訪れていた。
不思議な魅力を持つこの旅館には、ある噂があった。
宿泊客が一度その宿に泊まると、二度と訪れないというものである。
旅館の女将、佳子はその噂を知っていたが、特に気にしている様子もなく、淡々と日々を過ごしていた。
旅館の外観は古びているが、内装は清潔で、心地よい和の風情が漂っていた。
そんなある晩、一人の若者が旅館の扉を叩いた。
彼の名は翔太、30歳。
仕事に疲れた彼は、静かな場所でのんびりと過ごしたくなり、ここを訪れたのだった。
「いらっしゃいませ。お宿にようこそ。」佳子の優しい声が翔太を迎え入れる。
彼は安堵感を覚えながら、宿泊手続きを済ませた。
夕食は6時から、ということで、彼は自室に案内されると、少し仮眠を取ることにした。
目が覚めると、すでに時計は6時を過ぎていた。
「大変、食事に遅れるところだった」と思いながら、翔太は慌てて食堂へと向かった。
食堂に入ると、テーブルには佳子が用意した美味しそうな料理が並んでいた。
しかし、他には誰もいない。
「お食事、できていますよ。」佳子が微笑みながら言った。
その瞬間、翔太は気づいた。
この旅館には、空気が重くのしかかるような、不穏な雰囲気が漂っていることを。
彼はしゃくりあげるように、「他に客は…いないんですか?」と尋ねた。
「お客様は、いません。私とお食事を楽しみましょう。」佳子の声には何か影があった。
それでも翔太は、気を取り直して料理を口に運んだ。
次第に、この旅館の静けさが心地よく思えてきた。
その日、翔太は夜更かしをしながら、旅館の中を探検することにした。
廊下を歩き回り、古い畳の香りや、縁側から見える星空に心を躍らせていると、突然視界の端に何かが見えた。
ぼんやりとした影が、旅館の端の部屋の方へ消えていく。
翔太は好奇心に駆られ、その影を追いかけた。
そして辿り着いた部屋の前で、ドアがわずかに開いていた。
中から冷たい風が流れ出てきて、背筋が凍るような感覚に襲われた。
勇気を出して中を覗くと、そこには懐かしい日本人形が飾られていた。
しかし、顔がどこか歪んでいるように見えた。
恐怖心を抱えた翔太は、急いで部屋を離れようとした。
しかし、背後から„い“という声が低く響いてきた。
「行かないで」という優しい声は、一瞬佳子の声に似ているようだった。
だが、彼の体は動かなかった。
そのまま、目の前に映る景色は次第に変わり始めた。
旅館の外観も、背景も、まるで夢の中のように不明瞭になり、時間が止まったかのように感じられた。
恐れる翔太は、「何が起こっているんだ!?」と叫んだ。
その声は虚しく響いた。
翔太はあらゆる方向に逃げようとしたが、どこに行っても「いわみ旅館」から出ることができなかった。
旅館の静寂はさらに深まり、時折佳子の声が耳に響く。
「あなたはここにいるのよ…私たちと一緒に。」
翔太の中にあった逃げたいという思いは、次第に「なぜここに居るのか」という疑問に変わっていった。
彼は、なぜこの旅館に引き寄せられたのかを考え始めた。
思い返せば、ここに宿泊することが自らの選択だったのだと気づいた。
佳子の魅力に惹かれ、静寂の中で過ごすことを望んでいたのだから。
その瞬間、彼は一つの結論に達した。
「私は、もうこの旅館から出られない。」彼は文に言葉を繰り返し、笑みを浮かべる佳子を見つめた。
それが、彼の運命だった。
翌朝、佳子はいつも通りの微笑みで、ひとりの宿泊客、翔太を迎える。
しかし、彼はもうそこにはいない。
彼の存在は、旅館に残された影となり、次の新しい客を待ち続けることになった。